ちら裏

ちらしの裏に雑に書きなぐるイメージ

クリスマスとか誕生日とか

私がこの文章を書いている頃、世間はクリスマスで大盛り上がりをしているのだろう。

街のあちらこちらでは、カップルは互いの身を寄せ合い、家族は互いに笑顔を向け合う。友人知人で和気あいあいと盛り上がってるグループもいれば、一人じっくりとその雰囲気を味わっている人もいる。千差万別、各々の形で、「クリスマス」という祝日を満喫している。

 

私はこれまでクリスマスに限らず、誕生日だの成人の日だの、そういった祝日や記念日の類を楽しむということができなかった。早く終われと自分の中でブツブツ呪詛の念をひたすらに唱えていた。

苦手としてる家族が一同になって食事をする。普段私のことをどう思っているのかわからない両親が自分にむかって「おめでとう」などとほざく。有事の際、どうしても保身に走る人間(それはどうしようもないことである)がいつもありがとうと「贈り物」をよこす。互いのことをどうとも思っていない人間同士が、特定の日だけ互いの存在に感謝をする。それがどうしようもなく滑稽で仕方がなかった。滑稽に思えてしまうことが悔しくてたまらなかった。どうして私は他人からのプレゼントに対して、口だけの「ありがとう」しか言えないのか、せっかく言ってくれた「おめでとう」の中身を疑ってしまうのか。私がかつて見た地獄。その風景が、誰かから感謝を受ける度に脳裏に映る。私にありがとうという彼は、私の知らないどこかで、誰かに呪詛を振りまくのだろう。その呪いが、たまたま私に向けられていないだけなのだろう。そう考えてしまう自分がひたすらに憎かった。そして自分も彼らと同じ人間である以上、そういった面を持っている事が途方もなく悲しかった。

だから私は飲み込んだ。この雑念を払拭するために、人間の構造を飲み込んだ。人には善も悪も無いのだと。それはただのラベリングにすぎないと。人が成すことは全て本能に基づき、理性に基づくのだと。今私にありがとうという人が後に「氏ね」と告げることは自然なことであり、その逆もまた然りであるということ。生物は基本的に生存する為に行動を行う。ソレに対してわざわざ疑念をかけて一喜一憂することは非常にバカバカしいことだということ。

 

それからは随分と心持ちが楽になった。「おめでとう」に対して素直にありがとうと言えるようになった。私に向けられるあらゆる行為に対して「生きるためなら仕方ないよな」と思えるようになったのだ。現在の心境が前進の結果か諦観なのかはわからないが、まぁよしとする。