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最近読んだ本

諦める力/為末大

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「諦める」ということは、決して悪いことではない。

目の前のコトにしろ将来にしろ、人生は「選択」「行動」「結果」の連続であるということ、人間に優劣はないが個々人が持つ能力には優劣があること、そして自ら望む結果を得る為には「次の行動の選択肢」の中に「諦める」という選択肢が合っても良い、ということを超実力才能主義であるアスリートの世界で生きてきた為末さんが自らの経験を踏まえながら綴ったエッセイがこの本である。

「継続は力なり」と人は言う。確かにそれは真理であり、私自身そのことを実感する時は多々ある。だが、「努力が裏切ることもある」ということも真理だ。いくら頑張ったからと言って、努力が実を結ぶとは限らない。自分が今行っている行動が「自らが望むような結果に繋がらない」と自覚した時、素直に「諦める」ことの重要性を為末さんは語る。

 

「諦める」ということは、決して悪いことではない。

結果を出すために「向いていない」ことを諦めて「向いている」ことをする。目的を達成する為に、わざわざ回り道をする必要はない。「向いている」こととは、任天堂の故岩田社長がかつて語った様に、「皆が努力している中で比較的努力の量が少なくてすむ、もしくは努力が苦にならず自分にとって楽なこと」だ。向いていないことをし続けていると、結果は苦しみから得られるものであると錯覚してしまう。これが現在の努力主義である。

 

「諦め」と「向き不向きの自覚」はセットであり、「自分が得意なフィールドを選択し続け、そこで勝負し続けること」が重要であるとこの本では何度も繰り返し書かれている。

為末さんの場合であれば、「世界で活躍する」という目的を達成するために、彼は陸上競技短距離部門において花形である100m走を諦め、競技人口が少ない400mハードルで勝負することを選び、実際に活躍し続けた。その後、才能と肉体の限界から「アスリート」という立場そのものが「不利なフィールドである」と自覚し引退、現在はスポーツコメンテーター等、自らの経験を活かせる「得意なフィールド」で戦っている。

 

では自分が向いていることを自覚する為にはどうすれば良いのだろうか。それは、様々な競争に参加してみることだ。競争を通じて、どの分野なら楽に勝利し、逆にどの分野なら負けてしまうのか、トップクラスになれずともどの分野なら自分を認めてくれる人間がいるのか、そして彼らは何故自分のことを認めてくれたのかを分析する。そうして、自分の向き不向きを明確化していくのだ。私自身、こうやって文章を書いているのも「物を作りたい」という目的を達成する為の手段の中で物書きが一番得意で尚且つ続けられることだからである。

 

「諦める」ということは、決して悪いことではない。

ここまで聞くと「極端な結果主義」なのではと誤解を抱く人もいるかもしれないが、為末さんはこの本の中で「結果に拘ることこそ至上」ということを言いたいのではない。あくまで「人生を快適に生きる為に」回り道は不要と主張しているのであり、例えばオリンピックなどに繋がらない趣味で行うスポーツなど「客観的に評価されるような結果は出ないが、好きだから続けている」事に対しそれは無駄だとは一言も言っていない。

物事を続けることやこだわりに対し苦しみを抱いている人や結果を出したいのに出せない人に向けて「少し冷静に周りを見渡してみろ」というメッセージが込められているのがこの一冊である。

 

 

Half-real 虚実の間のビデオゲーム/イェスパー・ユール

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 私が初めて「ゲーム研究」という言葉を知ったのは、大学でカウンセリングを受けた後のことだった。カウンセラーさんと私の好きなゲームについて話すことがあり、その中で「ネットゲーム中毒者」専門外来が病院に設置されてきているという話題が挙がったのだ。その時カウンセラーさんと話したのは精神医学的、道徳的見地からのゲーム、ひいては非リアルについてだったのだが、娯楽としてのゲームではなく研究対象としてのゲームに俄然興味が湧いた私は、カウンセリング後に早速調べてみることにした。

調査の結果、ゲームは現在様々な見地から研究対象としてみられていることを知った。例えば文化や産業。プレイするためのプラットフォームであるスマートフォンが普及した現代において、ゲームはすっかり我々の生活に溶け込むことに成功している。その市場は映画や音楽産業を凌ぐ規模となっており、最近ではSONYの売上に「fate/grand order」というスマートフォンゲームが大きく貢献していたり、ゲームが「スポーツの一種」としての地位を確立し、eスポーツとして世界的な市場を確立しつつある。 その裏返しとして、「ガチャ問題」など深刻な社会問題となってしまっているのも確かだ。

 

そして数あるゲーム研究の中で最も有名なのがICT(情報通信技術)とHCI(ヒューマン=コンピュータ・インタラクション)の分野における研究である。

ゲームはICTを浸透させるツールとして最も優れているものの1つとされている。PCの操作技術やインターネットを用いた他者とのコミュニケーションへの導入としてゲームは多大な役割を果たした。また、プレイヤーとのインタラクティビティを重視するビデオゲームは優れたUIを生み出し、コンピュータソフトウェアのみならずチーム運営や報酬体型の作成など様々な領域に影響を及ぼしている。

 

閑話休題。そして今回私が読んだ「Half-real 虚実の間のビデオゲーム」は「そもそもゲームとはなんなのか」「ゲームをゲーム足らしめているのは何か」という根源的な問題について、様々な視点からのアプローチによって「ゲーム」というものの構造を細かく分析しながら解決していくという内容になっている。

例えば「シムズ」というゲーム。プレイヤーが街を作りそこに住む住人を観察する、というゲームなのだが、なぜ街を作り観察すること自体が「ゲーム」になるのだろうか。

例えば「ゼルダの伝説」と「チェス」。一見そうは見えないが、両者とも「ゲーム」というカテゴリに属している。何が両者に共通しているのだろうか。

もう一つ例を挙げると、CoDコールオブデューティー)という戦争をモデルにしたシューティングゲームがある。では何故CoDはゲームで、戦争はゲームではないのだろうか。

 

ちなみに題材はゲーム「Half-Life」をもじったものである。

 

著者によるイェスパー・ユールによれば「現実的なルール」と「虚構世界」、この2つの要素が同時に成り立つことで「ゲーム」は成立するのだと言う。

旅の途中でいきなり開始されるチュートリアルや、「Aボタンを押して」などと言ってくるキャラクター、「ポーン」や「ビショップ」という設定と「動かし方」というルール、「人生」というテーマと「サイコロとマス目」など、例を挙げれば挙げるほど確かにゲームには「現実性」と「虚構世界」が両立していることが分かるだろう。

昔は技術的、物質的な制限からカードの絵柄や駒の形のみでしか虚構世界を表現する術はなかったのだが、現在ではビデオゲームなどによって虚構世界は凄まじい広がりを見せるに至った。最近では「映画」と「ゲーム」の違いが分からなくなっているのではないかという話題が挙がることが多いが、いくら虚構世界の表現が素晴らしいものになったとしても、その世界に「現実的なルール」が適用されている限りゲームはゲームであり続ける。

 

ゲームが成立する条件だけではなく、ゲームがゲームである定義についても作者は述べている。ゲームは6つの定義によって成り立っているというが、個人的に興味深いと感じたのは6つ目の定義「ゲームに拠ってもたらされる帰結は、プレイヤーによってある程度コントロールできる(制限されている)」というものである。先程挙げた例の中で、戦争がゲームでないことの理由がこれで分かるだろう。ゲームであれば、先ず始まったら必ず終わるという前提が存在し、クリア結果は「達成すべき目的」や「純粋な勝敗」に収束されるが、戦争は終わるかどうかもわからないし、参加した人々がその後どういった帰結を迎えるのかということも分からない。

 

その他「何故マリオには3つの命があるのか、という命題から考えるゲーム内でのフィクション論」、かつてホイジンガが提唱したような「ゲームにおいてのルール論」「そして現実と虚構が混ざり合うゲームを私達は何故楽しむことができるのか」について、興味深い議論が展開されている。

論文の面白さは勿論であるが、作中に取り上げられているゲーム群が「風のタクト」や「ピクミン」、「MGS2」など私がかつてプレイした作品ばかりが登場し、思い出に浸ると共に「あのゲームを楽しめたのはこういう理由からだったのか」と改めて考えることができた。

 

本著が書かれたのは2003年であり、スマホの台頭やVRの出現など書かれた当時とはゲームをとりまく環境は随分と変化している。それでもこの本は大変おもしろく読むことができるのはこの本が持つ壮大なテーマ性故だ。ゲーム好きなら是非手にとって欲しい一冊である。