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ブレードランナー2049 を観て感じたこと諸々雑文

観た。観てきた。「ブレードランナー2049」。義務感半分あきらめ半分、正直期待しておらず「私の聖域を汚さないでくれ」と、作品を観終わるまで私の心持ちは厄介なヲタクそのものだった。

 

今作は間違いなく続編だった。例えるなら「インディーズバンドのメジャーデビューアルバム」というところだろうか。 前作のエッセンスを引き継ぎながらも作品が持つメッセージ性、テーマをよりポップな感じにしている印象だった。

前作を引きずりすぎて世界観構築の面において「SFらしさ」が多少おざなりになっていたと感じたものの、前作の「ブレードランナー」、ひいては原作である「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」が暗示する「人間が持つ世界に対する認識能力の脆さ」「人間とはなにか」というテーマの拡張には成功していたと思う。

 

仮に生殖機能と代謝、知性を備えた人間そっくりな機械「レプリカント」が存在しているとして、私たちは素直にレプリカントをモノ扱いできるのだろうか。

機械が機械やイメージに対して恋愛や信頼といった感情を抱くことがあるのだろうか。

それは本当に恋愛であり信頼なのだろうか。そもそも恋愛と信頼とは、人間であることとは何なのだろうか。

 

知性とは「思い込む能力」である。

我々は自ずから世界を「見て 聴いて 嗅いで 触れて」いるのではない。ただただ外部からの情報を一方的に受信し、その情報を自らのなかで統合、「思い込む」ことで外界を認識している。(受信の仕方についてはカントやパースらが色々と意見を述べている)

 

例えば視覚。私たちは「物を見ている」のではなく、「目というスクリーン」に映る光を脳内で処理しているにすぎない。目の中に入り込む光が万人共通であることは誰にも確かめようがないし、少なくとも肉体の構造の違いから、人間とそれ以外の生物の視覚からくる世界の捉え方は異なってくる。それでも私たちは同じ世界の上に立っていると思い込んでいる。

 

例えば歴史の構築。「世界五分前仮説」が有名であるが、歴史というものはただの推測でしかない。"当時とされている"資料をかき集め、共通性を見出し、そこから世界観を構築する。ある種文学的な作業とも言える。だが私たちは、その空想的な世界観と自身が生きている現在とが地続きであると思い込む。

 

例えば友情。私たちは「友達である」という状態を客観的に捉えることができない。「私はAと友達である」と思い込むことしかできない。そして「Aも私を友達だと認識している」と思い込むことしかできない。恋愛や信頼といった「人間の関係性」は実は個人で完結されている。

 

最近新型AIBOが発表されたが、ただプログラムされた行動を繰り返すAIBOに対し、人間が「家族」だと思い込めばAIBOはモノではなく「家族」になる。そう考えると定義も単なる付替え自在なラベルに思えてしまう。

 

私達の世界は私達個々人の思い込みによって成り立っている。そして「思い込み方」によって世界の風景はどうにでも変わってしまう。今後「世界を正しく捉える装置」が完成したとしても、人間が人間である限り、世界と「人間の世界」が交わる事は一切ないのだろう。

 

ブレードランナー2049はそんなことを考えさせてくれる良い映画なので、前作含めて観てください。オススメです。