ちら裏

ちらしの裏に雑に書きなぐるイメージ

私なりの「答えの無い問い」に対する解法・考え方

今朝こんな記事を見つけた。

 

b.hatena.ne.jp

 

「子供の学力の評価基準」として、偏差値の代わりに、総合的な思考力の指針である「思考コード」という基準を設けてはどうか/実際に私立校を中心に導入されている

という内容のものだった。

 

確かに常日頃生きていてぶち当たる問題というのは、白と黒、0と1を区別する、1+2=3になるというような、ハッキリとした解の出る単純なものばかりではない。

 

「今までにない新しい概念、モノを生み出す、発見する」「良い社会とはなにか・幸福とは何かを考える」 といった学問的な問題から、「良いチームを作る」「新しいビジネスを生み出す」というようないわゆる実践的な問題まで、私達が向き合わなければいけない問題は総じてメタフィジカルな事柄に関するものがほとんどだ。

しかしそういった問題に立ち向かうことのできる人はそう多くないのが現状である。

 

ところで私は大学で哲学を専攻しており、形而上学的な問題に取り組む機会が多いにも関わらず、2年生くらいまではこの「形而上学的な問題への解法」がさっぱりわからなかった。このままではマズイと思ったので、出来る人達にどうやって答えを出しているのか聞きまくったところ、彼らは基本的になんとなくやっているとは言うものの、多様な「なんとなく」にもある種、共通点が観られる事がわかった。その共通点とそれまでに大学で学んだことを組み合わせることで、

自分なりの「答えの無い問いに対する解法・考え方」を作り上げることができた。

 

前置きが長くなってしまったが、この記事はこれから「答えの無い問いに立ち向かう人達」「答えのない問に対し、答えを出せないでいる人達」に私なりの解法を提案したいというものだ。

あくまでこれは1学生である私なりの解法であり、「もっと良い方法がある」「ここを改善したほうが良い」という意見があればドシドシぶつけて欲しい。

よろしくお願いします。

 

 

前提として

先ず前提として、「答えのない問」に対して「正しい回答」(論理的整合性が取れている回答)であるというだけは「良い回答である」ことの基準にならない。

良い悪いの基準になるのは「納得できる回答」であるかどうかだ。(ちなみに論理的整合性が取れていない回答は「回答とはいえない」と定義しておく。)

 

 

例えば、「世界中の戦争を止めるにはどうすればよいか」という問いに対し

「戦争の主体は人間なので、人類種を滅ぼせば良い」 

という回答は「正しい」

 

が、「それは間違っている」「良い回答とは言えない」と思う人は多いのではないか。なぜなら「納得がいかない」からだ。スッキリしない、モヤモヤする、確かに正しいけれど何か違和感を感じる…だからこの回答には納得いかない。故に間違っていると感じる。

 

逆に納得できる回答はどういったものか。

例えば「人類全体に普遍的な道徳という概念は適用できるか」という問いに対して

 

 「普遍的な道徳は実現できない。なぜならそもそも道徳は地域の文化的な背景と密接に結びついており、普遍的ではないからだ。例えばアメリカで道徳的に禁止されていない事が、インドでは道徳的に禁止されている。日本には殺人が道徳的に許されていた時代もあった。それは道徳が文化的な背景に拠るものだからだ」

 

 という回答は「正しい」し、「納得がいく答え」であるので、「良い回答」と言える。

両者の違いに関しては後述するが、とりあえず「答えのない問い」に対しては「正しく納得がいく答え」を出さなければいけないということを理解してほしい。

ここで注意して欲しいのは「納得のいく答え」は「真理ではない」ということである。

あくまで論理的整合性がとれていて、「納得がいけば」良い。その為、様々な「良い回答」が存在することになる。

 

 

 

「納得がいく」とはなにか

 そもそも「納得がいく」とはどういう状態なのか。

「納得がいく」とは「問題の主体に、回答の中身が再現できることが、具体性のある理由により明確である」ことが「問題の主体に理解できている状態」の事を指す。

 

例えば「人類全体に普遍的な道徳という概念は適用できるか」という問題の主体は「人類全体」である。

そして、「人類全体に普遍的な道徳という概念は適用できない」という回答の中身の再現性を「そもそも道徳は〜という理由で普遍的なものではないから」という具体的な理由でもって明確にしている。

 

もう一つの例として「Aさんにとって、ある仕事を効率良く行う為のチームとはどういったものか」という問題を挙げてみる。
この問題の主体は「Aさんなので、いくら良いチームのアイデアを出しても問題の主体である「Aさん」が再現できないのであれば、それは良い回答とは言えない。

 

そして最大のネックは「問題の主体に理解できている状態」に持っていかねばならないことである。如何に良い回答であっても、問題の主体者に理解できなければ意味が無くなってしまう。この点に関しては、主体者の理解力に委ねるほかない。

「納得がいく答え」の出し方

以上を踏まえて、やっと本題に入る。実際に上記の記事作中にあるフランシスコ・ザビエルに関するC3の問題を通して、「良い回答」を出してみよう。

 

問題は以下の通りだ

もしあなたが、ザビエルのように知らない土地に行って、その土地の人々に何かを広めようとする場合、どのようなことをしますか。600字以内で答えなさい。

 

先ず「問題の主体」は誰かを読み取る必要がある。この問題での主体は「あなた(回答者自身)」であることが読み取れる。その後、「知らない土地で何かを広める為にどのようなことをすればよいのか」について書けばよいのだが、仮に「先ずその土地を武力によって制圧し、人々に認知を権力によって強制させる」などと書いたらアウトだろう。

問題の主体である「あなた」によって再現ができない、手段の具体性が乏しい、などといった「納得できない」要素が入った回答は良い回答とは言えない。

ではどうすれば「納得がいく」答えを出すことができるのか。

 

ところで、形而上学的な問題というものは古今東西、あらゆる時代、あらゆる場所で問われ続けてきた。あなたが今悩んでいることは、はるか昔、同様に誰かが悩み、既に「納得のいく回答」を出しているのだ。そしてその方法を現代に流用することは可能だ。

古代のライフハック本が古典として今も親しまれているのは、そういうことである。

しかし、当時の方法をそのまま「納得の行く回答」として流用することはできない。一度その方法を「抽象化」し現代風に「具体化」する必要がある。

 

幸いなことに「知らない土地にいって何かを広めることに成功した」例としてザビエルが提示されているので彼の手法を参考にしてみよう。

 

ザビエルはキリスト教を広めるために先ず各地の大名や時の征夷大将軍天皇に布教の為の許可を貰いに行った。なぜなら自身の行為の正当性を認可させると共に、「お墨付き」という影響力をもたせることになるからである。許可をもらう際、認可のメリットとして、南蛮貿易の効率化など様々なメリットを挙げた。

 

これを抽象化すると

ザビエルはキリスト教を広めるために、先ずその土地において一番影響力のある人間に、キリスト教を広める為の許可をもらいにいった。なぜなら自身の行為の正当性を認可させると共に、「お墨付き」という影響力をもたせることになるからである。許可をもらう際、自身の国との貿易が捗るなどのメリットを挙げた。

 

そしてこれを現代風に仕上げるのだが、ここからは読者の方がそれぞれ「納得のいく回答」を出して欲しい。

 

 

まとめ

①「答えのない問」に対しては「論理的に正しく、且つ『納得のいく』」回答を提示する

「納得がいく」とは「問題の主体に、回答の中身が再現できることが、具体性のある理由により明確である」ことが「問題の主体に理解できている状態」の事を指す。

③「答えのない問」に直面した時は先ず、「問題の主体」を明らかにする。

④先人達の回答例を参考に、「問題の主体」にとって「再現性が高く」「理解しやすい」論理を構築する。

⑤「納得の行く答え」のできあがり。

 

 

 私なりの「答えの無い問い」に対する解法・考え方は以上なのだが、あなたにとって納得の行く答えであることを祈っている。もしそうでないなら納得できない点を教えて欲しい。学問とはそういうものだからだ。