ちら裏

ちらしの裏に雑に書きなぐるイメージ

アウグスティヌス「告白」を読んだ

自伝とはなんだろうか。辞書的な意味を説明するというならば「自分の記憶に基づいた、自分自身の視点から観た自らの生涯、所謂人生を一冊の本という形に纏めた書物」ということになる。一般的な伝記との違いを言うならば、あらゆる事柄が「主観的」、おおよその根拠を記憶に頼っているという点でそれと異なる。よく混同される回顧録との違いに関しては、「映画」と「写真」の違いの例えで説明できる。「自分で観測した歴史」に主眼を置き、まるで自身を監督として作成された映画である自伝に対し、回顧録はある出来事のみにスポットライトを当てた「写真」である。特定の出来事、そしてその時点における筆者の感情、記憶、見解を歴史の流れから切り取り纏めたものであると言えよう。

物語のカテゴリの中に、フィクション・ノンフィクションという言葉があるが、自伝はどちらに当てはまるのだろうか。私は、自伝は「フィクション」なのだと思う。というより、元より「ノンフィクション」というカテゴリはないだろう。何故かと言うと、自伝を書く上で、作中登場するあらゆる情景の根拠は自身の記憶という曖昧なものに基いているし、そもそもとして、「過去」というものは非常にあいまいな概念であるから、過去を描くという時点でそれはファンタジーと変わらないだろう。ではなぜ過去はあてにならないのだろうか。

我々はどうやって過去の状況を知るのだろう。我々は過去の状況を当時の「記録」から知ることが出来る。しかし逆に言えば「記録」からしか知ることは出来ない。仮に戦国武将の上杉謙信や剣豪、宮本武蔵が事実女性だったとしても、「記録」に男性と遺されているならば彼らは将来男性と扱われてしまう。当時の人々に男性と認知されていたならば「彼女達は彼らになってしまう。」記録というものはあくまで人間の記憶を目に見える形にしたものであり、記録の正当性も、複数の記録の整合性からでしか確かめることはできない。過去は「個人から見えたもの」であって、「見えるもの」ではない。「見なかったもの」は残らない。当人が「その時に事が起きた」と言ってしまえば、たとえ時間がズレていてもそうなってしまう。自伝は特にそういう意味で、「著者が見たもの感じたこと」しか書かれていない、空想の物語といえるのではないだろうか。

かのアウグスティヌスは、時間という概念について自伝「告白」作中でこう語っている。「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」(第11巻第14節)時間とはつまるところ「外部と関連した心の動き」に他ならず、アウグスティヌスにとって時間は「過去→現在→未来」ではなく、過去は「すでにないもの」、未来は「いまだないもの」である。現在から観測した過去とは現在の「記憶」であり、同様に現在から観測した未来とは現在からの「期待」、そして現在は「直感」である。過去も未来も存在せず、今この瞬間における直感の連続しか存在しないとアウグスティヌスは答えたのだった。

先程述べた通り、時間の概念は曖昧で、「当時の状況」については整合性が取れなければあてにならない。自伝においては、「観なかったこと」として都合の悪い過去を書かずに消してしまうことができる。では「時間の中における自己」が正しく客観的に書かれている訳でもない自伝が何故、読まれ続けているのだろうか。

 自伝のある意義、何故自伝が読まれ続けているのか、それは自伝が「当人が読者へ向けたコミュニケーション」の手段だからではないだろうか。先程挙げた、アウグスティヌスの「告白」では、アウグスティヌスがかつてマニ教占星術を信仰していたこと、若い頃泥棒や女遊びにふけっていたことなどの後悔、そしてキリスト教との出会いと回心が、神への懺悔、告白という体で書かれている。自伝において重要視されるのは、当人を取り巻く環境や、直面した事実、所謂「真実性」ではなく、「環境や事実に対した当人の感情、その変遷、何が好きで何が嫌いなのか。極めてパーソナルな情報」である。自伝は自身にフォーカスすることで、著者に対する読者の一方的なイメージを崩し、「みんなに観て欲しい自分」を伝える為のコミュニケーション手段としてあるのではないだろうか。さらに「告白」は、自らの人生だけではなく、自らのキリスト教に対する考え方も書かれている。アウグスティヌスは読者に対し自分のあり方だけではなく、自分の考え方を知ってもらう手段としても自伝を用いているのである。

 ではなぜ読者とのコミュニケーションが必要なのだろうか。それは「著者」と「読者」の関係にある。ある作品を読む時において、著者の意向に関わらず、読者は著者の歴史的背景や人物像を考慮しない場合や、逆に読者が歴史的背景、作品を通じて、著者の勝手なイメージ像を構築してしまう場合もある。「作家と作品を切り離すべきなのか」読者が一方的に行ってしまう判断に対する著者からのアプローチ手段として自伝はあるのではないだろうか。しかし、先程述べた通り、自伝は非常に曖昧な、もはや記録とは言えないフィクションであることは明らかである。その為、自伝における記述によって批評家や専門家といった読者による作品の解釈そのもの、ひいては文学史といったものが否定されることは無いだろう。あくまで自伝は作品に対する理解を深める為のスパイスである。