ちら裏

ちらしの裏に雑に書きなぐるイメージ

愚痴

私は、よく人から相談をされる人間だ。相談をする側の人間からすると、私は「最期の砦」らしく、自分でいうのもなんだがアドバイスは割りと的確だと評判がいい。

こんな私を頼ってくれるのはとても嬉しいのだが、受ける相談の内容がことさらヘヴィな事が多いのがなんというか悲しい。

浮気をしたい…人生の見通しが立たない…ショックで立ち直れない…もっとしたたかになりたい…特定の人を追い払いたい…etc

別に私に対して重い相談をするなということを言っているわけではない。困っている人に請われれば、それが例え世間一般で言う「悪いこと」であろうとも耳を傾け、道理が通れば手を貸すのが私の信条であり、どんなに重かろうが軽かろうが最低限相談にはのり、出来る限りのアドバイスはする。

 

ただ、相談を受ける中で「『世の中』というのは『悪意』で満ちているし、それが普遍的であること」に否が応でも目を向けなければならず、そしてそれを人間が許容していること自体が悲しく思える。

 

以前このブログ内でしつこく書いてしまったが、私は家庭内で虐待を受け、周囲からはイジメを受けて育った。そしてそれは一時的で「特別なこと」だと思っていた。大人になれば「良識のある人間」が周囲に多くなり、かつてさらされていた「人間の悪意」からは解放されると思っていた。

 

 

そんなことはなかった。世界は1つしかない。子供から大人になろうが、世界はただかわらずそこにあるだけだった。

田舎から出て東京で一人暮らしを始めた今でも、相も変わらず人は信頼を裏切りたがるし、他人を利用しようとする。事実からは目をそむけ、都合の良いことを信じ込もうと躍起になる。口だけで行動を起こさず、責任から逃れることに対しては俊足を発揮する。そしてそれが平然と許容されている。

私自身はそういったことは絶対にしないよう心がけている。なぜなら上記の行為をしてしまえば、私は、かつて私を貶めた奴らと同類になってしまうからだ。

だが、正直「生きにくいな」と思う場面が多々あることも事実だ。時に友人からは「あまぎも少しは遊んだら?」とアドバイスされることがある。そう言われると、なぜだか非常に悲しい気持ちになる。

 

 

どうして人は平然と人に対して悪意を振りまき、そして「こんな私のことを受け入れてくれるだろう」と思えるのだろうか。絶対的な拠り所があるからなのだろうか。私には到底理解ができない。

日本には「情けは人の為ならず」という言葉がある。人に対して払った恩情は回り回って自分のところへ返ってくるという意味だ。正にwin-winの関係だ。どうして人はこんな簡単なことが出来ないのだろう。自分だけ得をしても最終的に人間が迎えるEDは等しくデッドエンドだと言うのに。

 

そもそも、善も悪もないのだろう。「善」も「悪」も単なる結果に対する1方向からのラベリングに過ぎない。この2つの概念を考えた人は天才だと思う。

人間の在り方は行動と結果、そして結果が次の行動に与える影響を「得」か「損」で表現することに帰結する。人間、そして人間が生み出す社会は複雑怪奇だと世間はいうが、構造はいたってシンプルだ。そう考えれば、他人に対して誠実であることも、不誠実であることも、生み出す結果において最終的に自分にとって「得」になることもあるし、「損」になることもあるのだから、両者を使い分けることが常道であることも理解できる。

 

ただ、頭でわかっていても、私はこの人間の在り方を許すことが出来ない。許せない。

あなたの行動で涙を流す人がいる、もう二度と立てなくなるかもしれない人がいる。

なのにそれを許容し平然と行える人間の在り方そのものがただひたすらに憎い。悲しい。

 

 

 

自分はめんどくさい人間だなぁと。

 

 

 

 

最近のゲーミング

ドラゴンクエスト過ぎ去りし時を求めて

クリアまでおよそ60時間、久しぶりに万人にオススメ出来るような素晴らしいゲームに出会うことができた。

このゲームに関する感想は以下の記事内に纏めたので読んで頂きたい。

amagi.hatenablog.com

日頃ゲームに対してそこまで興味がないという方、この機会に是非PS4と良いモニター、そしてこのソフトを購入してプレイして欲しい。損は絶対にさせないので。

 

 

DOOM

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DOOM」とは、アメリカで社会問題となる程に人気を博した老舗FPSゲームシリーズであり、私が今回プレイしたのはその最新作にあたる。

私はとにかくシューティングゲームが苦手だ。「偏差撃ち」や「腰撃ち」などといった基本的なテクニックそれ以前に、とにかく相手に弾が当たらない。致命的なまでにエイム力が低いのである。一応、シューティングゲームをプレイする度に練習は欠かさず行うのだが、全然向上する気配がない。多分センスの問題なのだろう。

易しめのTPSゲームである「スプラトゥーン2」においてでさえ、「ウデマエ」が「B+」であることが、私のFPSセンスの無さを物語っている。

だからといってシューティングゲームが嫌いだ、というわけではない。寧ろ大好きなゲームジャンルである。

遠くから相手に狙いをつけて、弾丸を命中させる。

上から、下から、物陰から、空中から、動き回りながら…

自身は一切傷つけられることはなく、相手を徹底的に蹂躙することができる。

ゲームプレイによって得られる快感の量で言えば、おそらくシューティングゲームがその最たるものになるのではないだろうか。

 

そして「DOOM」は、数あるシューティングゲームの中でも、「快感」に特化したシリーズだと言えるだろう。

実際、本当にプレイしていて「気持ちいい」のだ。

 縦横無尽にステージを動き回り、敵である「デーモン」に向けてありったけの弾をぶち込む。そして殺害に成功すると、まるで水風船のように大量の血しぶきを体中から炸裂させながら死体がはじけ飛ぶ。描写は非常にグロテスクではあるものの、腹部から消化器がこぼれ落ちるというような、つい吐き気を催してしまう描写ではなく、飛び回る蚊を潰した後のような無垢な爽快感を煽るものだ。

弾丸で、ビームで、時には拳やチェーンソーで、デーモンを無茶苦茶にするのは非常に気持ちがいい。

基本的に敵の攻撃は大雑把で当たらず、その代わり圧倒的な物量で攻めてくる。

そして敵はすばしっこいものの大抵大柄なのでコチラの攻撃はバンバン命中する。エイム力が乏しい私の射撃でもやっていける程度には当たる。

 

現在はとりあえず1人プレイモードをクリアしたところで終わっている。マルチプレイは私自身のプレイヤースキル的問題とそもそも過疎っているのでプレイしていない。

ステージ制作も私は別にビルディングが好きなわけではないので手をつけていない。

今作の売りとして、「ステージの探索」という点があるが、初回プレイ時にはとにかく敵を倒すことに必死でそんなことしてる余裕などなかったので、次回もう一週する時は隅から隅までステージをチェックしてみたいと思う。後、攻略中にプレイヤースキルを試す試験のような場があるのだが、全然クリアできなかった。精進せねば。

 

 

アサシンクリード2 エツィオ・コレクション

10月末発売の「アサシンクリードオリジン」の為に設定やプレイの復習をしようと購入。私が初めてこのゲームをプレイしたのは確か15歳の時。CERO「Z」だったけど、まあ買えたよね…

今作はかつてPS2をプラットフォームに発売された「エツィオ3部作」と呼ばれる「アサシンクリード2」「ブラザーフッド」「リベレーション」の3作品のセットに加え、映像作品が収録された大ボリュームな1本となっている。

リマスター版ということで、オリジナル発売当時からグラフィックが大幅に向上しており、本作の舞台であるルネサンス期のイタリアの風景を存分に楽しむことができる。

オリジナルが発売して8年経った現在でも「世界で一番格安なイタリア旅行」という二つ名は今だ健在だ。

 

 現在は「アサシンクリード2」本編をクリアしたところだ。

プレイ当初は上手く操作することが出来ず、暗殺が仕事なのについつい大立ち回りをしてしまっていたものの、ゲームが終盤に向かうにつれてやっとアサシンらしい暗殺ができるようになった。

そういえば、私がオリジナルをプレイしていた時にはなかったようなシーンが追加されていた。素晴らしいシーンだったので特に文句はないのだが、PS4版として発売する以前にPS3版としても発売されていたので、その時に追加されたものなのだろうか。

 

 

その他

FF15のアサクリコラボやらFGOの復刻イベントである「ネロ祭」をプレイしている。

FF15に関してはアプデする度に良くなっていっているので、DLC商法を止めて開発期間がもう少しあれば発売の時点でもっと作品のクオリティは現在より上がっていたのかなと思うこの頃。

そういえばPS StoreTGSセールが来ましたが、私はディスオナード1.2、アサクリロンドン編を買おうかなというところです。あとはFF零式結構好きだったのでHD版ちょっと興味ある。

 

以上近況報告でした。

 

 

 

 

 

風呂は良い

風呂は良い。風呂はここではない、別の場所へ私を連れて行ってくれる。

現実ではない、深い深い思考の奥底に。

水中特有の浮遊感と、心地の良い水温によって、私の思考は緩やかなものになり、空間に漂う湯気と、水面から湧き上がる熱気が、空想と現実との境界を曖昧にする。

要するに湯船に浸かっていると、心が落ち着いて、私が大好きな「頭の体操」、考え事がとても捗るのだ。人間関係のこと、学問のこと、今後のこと、趣味のこと、自分のこと…

私が幼いころは、風呂に入ると毎度脳内で考えた物語の設定を展開し、湯の中で一人芝居を打っていたものだ。

今でも物語の設定は覚えていて、天使と悪魔の双子の物語だった。二人は物心つく前に引き離され、正反対の環境で育つ。お互いそれぞれ出会いと別れを繰り返し、その果てに…だったようなそうでなかったような。

 

ただ湯船に浸かっていれば思考が深くなるというわけではない。湯船に浸かったことで得られる「心地よさ」が重要なのだ。私の実家の風呂はまあ大人一人が横になれるくらいの大きさ、深さがあり子供の私にとってはちょうどいい広さだったのだが、現在私が住んでいる家の風呂は正方形の五右衛門風呂であり、シャワーの勢いはチョロチョロ。平成生まれの私には馴染みの薄い、レバーを回してガスを点火するタイプの旧型だ。

うまい具合に湯加減をコントロールできないことが多く、お湯がぬるすぎだったり、逆に時々お湯を沸かしすぎてシャワーを浴びようとすると「あっつい!」と声を上げてしまうこともある。私が思い描く「心地よさ」を得るための環境とは程遠いのが現状だ。

 

そういうわけで、自然と銭湯通いが趣味になった。最初は近所のスーパー銭湯に通い、様々なお湯や、入浴形式、サウナを楽しんでいたのだが、人間なんども同じことをしていると飽きてくるもので、次第に都内近郊にある様々な銭湯に足を運ぶようになった。

やはり湯に浸かった時に足を伸ばせるというのは最高だ。

入館料は格段に高いが、その分人が少なく快適に入浴できる豊島園「庭の湯」

ミニマムだが、充実した設備の中目黒「光明泉」

いかにも銭湯らしい銭湯、上野「寿湯」

などなど…

金銭的な事情からそこまで頻繁には出かけることはできないが、「浸かりてぇな…」という気分になったらなるべく銭湯に行くことにしている。大体そういう時は心身が悲鳴を上げている時か、じっくりと考え事をして、頭の中を整理したい時だからだ。

 

今日は生と死の街、鶯谷に新しくできた巨大銭湯「萩の湯」に行ってきた。

良かった。いい体験だった。日暮里に近いということもあり、そのまま徒歩で谷中銀座まで行き、私の大好きな甘味処である「和栗や」でモンブランを食べて帰った。考え事をしたあとに食べるスイーツは格別である。

 

 

銭湯通いが習慣になってきた現在、これまで私は旅行というものに全くといいほど惹かれなかったのだが(惹かれない理由はまたあとで)温泉地に行きたいなぁとなんとなく思い始めている。箱根、草津、鬼怒川…お金に余裕があれば少し遠出してみようかな。

ゲームをやり込めなくなった

せっかく買ったゲームをやり込めなくなってしまった。

私がまだ若かりし頃といえば、ポケモンだったら図鑑完成、FFであればアルテマウェポン入手に加えオメガ討伐は当たり前、ACシリーズはハードモードまでクリアし、ロックマンゼロシリーズは疑似RTAやら本編ノーダメクリアを試みる程までやりこんだ。

その他色々なタイトルをプレイしたが、私の中でのゲームのゴールラインは「最強武器入手、隠しボス撃破」が当たり前だった。

 

それが今ではどうだ。本編をクリアするのが精一杯じゃないか。隠しボスは気が向いたらで、サブクエストになんか全く手をつけなくなってしまった。トロフィーコンプなんて夢のまた夢だ。

別に飽きが早くなったというわけではない。老化によるバイタリティの低下というわけでもない。

いつのまにか、娯楽に対して「真面目に楽しめなくなっていた」のだ。

 

昔は楽しいことに対して純粋に楽しさだけを突き詰めていた。どうすればもっと楽しくできるか、ワクワク出来るか工夫することが楽しかった。

ゲームでのセルフ縛りプレイやロールプレイは勿論、ゲーム以外の分野では、例えばおにごっこやドッジボールに独自のルールを付け加えたり、トランプを使った新しいゲームを考えたり。旅行であれば、あえて観光地から外れた、現地の人たちが住んでいる場所に赴いてみたりもしていた。

とにかく楽しむことに対して真摯で、全力だった。

 

だが今は違う。

コスパ、効率、学習、時間、様々なことが何に対しても頭の中をよぎるようになってしまった。

「この体験をして得られるものはなにか、それは活かせるものなのか、どの程度の時間や費用がかかるのか、私はそれによって成長できるのか」

楽しむことに対して付加価値を求め、贅沢をすることに対し焦りと罪悪感を感じてしまう。

 

どうすればかつての気持ちを取り戻すことができるのだろう

ドラゴンクエストⅪ ps4版 レビュー(※ネタバレあり)

以前クリア前に以下のような記事を書いたが、

amagi.hatenablog.com

 

この記事を書いている時点で私は確信していた。「ドラゴンクエストⅪという作品は、紛れもない傑作である」と。そして裏ボスまで倒し、物語を終えた今現在、この確信は、現実に変わった。

 

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休学して1ヶ月経った そしてその成果

私が休学を決意したのは7月の末頃だった。

就職活動を続けていく中で、「今後どうやって生きていくのか」という漠然とした疑問が突如芽生え、育ち、私の心の中ですくすくと大きくなっていった。そしてこの疑問に対する答えを私は導き出すことができず、解決するどころか、いつのまにか私自身を支配されていたのだった。

 

よくよく考えてみれば、私には今後生きていく予定がなかった。私の人生をかけて行うべきタスク、「両親への復讐」。それまで身を焦がしていた、自殺を一度取りやめた私にとって生きていく為の動力源だった憎悪の焰が、様々な人間の価値観に触れていく中でいつのまにか静かに消えてしまっていたからだ。

本来資源というものは外部ではなく自らの内から見出し、まかなうべきだ。

周囲から供給される薪を燃やして生きていた、生きる理由を外部に依存していた私は、それが絶たれた後のことを全く考えていなかったのだった。

 

正直もういちど死んでしまおうかと考えたりもした。Amazon練炭をポチろうともしたが、ふと自殺した祖父を思い出し止めた。

かつて私の居場所だった祖父。

私に「生きろ」といい、自身は生きることに耐えられなくなって死を選んだ祖父。

あんな惨めな最期を迎えるくらいなら生きてた方がマシだとギリギリで考え直した。だが如何せん今後どうやって生きていくのか思いつかない。

金を稼ぐのがいい、趣味に生きるのも良い、家庭を築くこともいい、様々な一般的価値観があるが、私はどれにも惹かれなかった。そもそもとして、復讐それ以外に対する欲求が希薄だったからである。

 

 

意を決し死地に赴くつもりで両親に半年の休学の意志と理由を告げ、なんとか許可を得た私は、とりあえず大学のカウンセリングルームに通うことから始めた。無料だったので金銭面で非常に助かった。

私の担当になってくれたカウンセラーさんはとても素晴らしい方で、私が普段人に言えないような話に対して傾聴してもらうだけでなく、私が囚われている固定観念の分析を手伝ってもくれた。時には自身の経験からアドバイスをしてくれることもあった。

そりゃそれが仕事なんだからと言われればそれまでだが、こういった「重いコト」について真摯に向き合ってくれる人はいなかったので本当にありがたかった。

 

私が1ヶ月の間カウンセリングを通して気づいたこと、成果は以下の通りだ。

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 ・頭でいくら理解していても、感情がついてこなければ意味はないということ。

 

 ・私には私を虐げてきた人間たち同様に悪性が備わっていることを認めることが出来ていなかったということ。人間誰しも悪性は備わっているということ。

 

 ・「今まで苦労した分、同様に報われなければいけないという強迫観念に囚われ、「もう頑張りたくない」という声から目をそむけ続けていたということ。

そもそもとして「報われている状態」のビジョンがなかったということ。

 

 ・生きていることが承認されている状態=他人から賞賛を受けている、評価されている状態だと誤解していたこと。その結果「管理する側」という立場に固執してしまった、ということ。

 

 ・周囲からの評価を気にして感情を発露することを抑止していたこと。(人前で喜び、笑い、涙し、何かを欲するということに対して恥の感情を持っていたこと。)

 

 ・個人の持つ価値観が世間一般とはどれだけかけ離れていても、その価値観を抱えていること、それ自体は尊重されるということ。善悪、正しい/正しくないの判断は外部に出てきてから初めて成されるということ。

 

・集団に溶け込むことは大切だが、それ以上に自分にとって居心地の良い集団を作り上げることは溶け込むこと以上に大切であるということ。

自己を絶対的に承認された経験が乏しい自分にとって、居場所を「自分で」作ることはかなり重要であり、居場所=依存先は多数作り上げる必要があること。(一つの居場所に負担をかけつづけないということ)

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週1回、1時間のカウンセリングなのだが、充実した時間を過ごせていると思う。

自分が受けた過去の傷を再び切開するような辛い時間でもあるのだが、自分の心の持ちようが確実に変化していることは分かる。

私は幼い頃から心に虚というか、ぽっかりと穴が開いている感覚に悩まされていたのだが、その感覚はカウンセリングを始める以前と比べて大分収まってきていた。穴が自然と塞がっていっているの感じた。これが「自分を愛する 」ということなのだろうか。

 

自分の欲求が分からないのであれば、自分にとっての好き/嫌いに従順になった方が良い。そして好き/嫌いという気持ちをどんな方法でもいいから表現すること

とのアドバイスをカウンセリングの中で頂いたので、現在は気の赴くままに好きなゲームをしたり、本を読んだり、行きたい場所を訪ねたり、食べたいモノを食べている。そしてこのブログにレビューを書くなりSNSに感想を投稿するなりしている。

 

 まだ、自分の中での生き方の指針については定まってはいない。定める必要もないのかもしれない。ただ、「もう頑張りたくない、楽をしたい」という本音を認める事はできた。この本音にしたがって今後どう動くか、残された時間を使って焦らずに決めていこうと思う。

 

 

 

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